「子供は、いつも食べたいものだけを食べる権利を持つ」論

 食事の献立を何にするかを決定する権利、つまり献立権を巡る嫁と姑との権力闘争は、大家族時代の大きな課題の1つであった。この献立権が今、子供達の手に握られていると聞いた。「今日のメニューは何がいい?」と親から聞かれた子供が、「あれがいい。これがいい。」と応えると、それでその日の献立が決まる。「子供は、いつも食べたいものだけを食べる権利を持つ。」というわけだ。

 この子供の年齢がもしも6歳であるとしたら、6歳の子供が知っている味・献立しか食卓には載らないことになる。サイゼリアなどの外食が、食事体験の基本となって、母の味は霞んで消える。「味覚の原点は和食」などといった発想はない。イタリア料理、中華料理、フランス料理、韓国料理。何でも美味しければよいではないかと人は開き直る。我が家の定食なぞ要らない。テレビの宣伝とお店の売り込みが判断の基準。そして子供が最終決定をする。

 「嫌いなものが全く出てこない我が家の食卓は、子供達にとって安心と満足の世界」と思って、親も満足でいられるのは、その後数年間限りのこと。少なくとも木更津社会館保育園は、栄養士が決め園長が承認した献立を、理由なく拒否することを子供達に認めない。子供達の好き嫌いを認めない。

 用意された食事を、好きでも嫌いでも、「お腹が減った!」と言って平らげることが子供達に求められている。「飢えたる者は食を選ばず」と孔子様は言われた。食前の子供達が充分に空腹であれば、既に味付けの半分は終わったと同じ。そして専門の栄養士によって事前に計画され、人として、日本人として是非知っておいて欲しいメニューが日々出されているとしたら、6歳児の目に映った印象を評価基準にするなんておこがましいし、子供が食事が上手いか不味いかを判断するなぞ、あってはならないことではないか。母が作った物が、そのままで美味しいのであり、子供の異議申し立ては早すぎる。

 子供の味覚は、まだまだ限定固定化されていない。様々な食事体験を重ねながら、日本人としての基本の味覚を子供達は体得すべきだ。古来、何よりも食事は地産地消を基本としてきた。人が生きる地点から30キロ以内の食材によって、人の健康・命は作られてきた。私達にとって、それは和食であり、米・魚・海草・野菜・味噌醤油等であった。

 子供達は、知らず知らずのうちに、この伝統の母の味を自らの味覚の基本とすべきなのだ。サイゼリアが子供達の味の基準になってはならないのだ。(サイゼリア社長及びその母上の素晴らしさを私は承知しています。ここでは、ファミレスの代表格としてその名を挙げさせて頂きました。)