「森の保育」のはじまり(は、当時ビジネス誌で話題になっていた、企業30年説でした。)

1999年3月19日 森・里山保育開始!

 

 私は3つの土蔵を持っている。個人所有ではない。木更津社会観保育園分園に2つ、寺に1つ。どれもただで頂いた。それぞれ移動や修繕に経費が必要であったが、素晴らしい姿に蘇った。捨てられていた物も、新しい役割が与えられて新しい息が吹き込まれれば、息を吹き返す。「森の保育」「里山保育」はこの土蔵のようなものだ。

 

 

 ネズミはかじり、猫はひっかく。赤ちゃんはしゃぶり、一歳半児はだだごね。葛藤耐性満々の2歳半児は、仲間とすぐ衝突。かと思うと「今泣いた烏がもう笑う」ことを繰り返す。

 30年前、30歳で木更津社会館保育園の園長になった私に与えられた最初の課題は、法人の設立と園舎の改築。昭和13年、旧制県立木更津中学校の寮(木更津-小糸-清和線のバス開通により不要になった)を譲り受けて移転改築。以来40年が経過していた老朽園舎の全面改築であった。建設不況のまっただ中で、槙設計事務所の指導の許、ほんの2億円の工事を天下の竹中工務店が請け負ってくださった。防衛施設庁の仕様に基づく施工で、色々と厳しかったらしいが、とても丁寧な仕事をして下さった。

 その設計をするときに私がこだわったこと。子供達がその建物に入った時、「安心感と共に適度の緊張感を持たせたいな」ということ。緊張感とは「歯ごたえ、手応え」のこと。「ほっ」とするだけでなく、子供たちが動き回っていくと、「何これ!」といった場所に出る。ちょっと身構えて、脳を「くるっ」と回転させて、また動きだす。子供達が思わず「くるっ」と脳味噌を回転させる保育園。挫けそうになる心・体を淡々と立て直して平気な子供達。何もなかったかのように、また歩き出す仲間たちがいる保育園。「歯ごたえ、手応え」欲求を十分に満たされた子供たちが、にこにことしている保育所を私は目指していた。

 私は、社会館保育園の園庭を森にしたかった。随分木々を植えた。竹中工務店からは、1本の大きなボタン桜を頂いた。実のなる木、花が咲く木、そして鳥たちを呼ぶ木達。運動会をする都合で、途中で植樹は止まってしまった。が、運動会は、木と木の間をくぐって実行され続けた。

 

 

 

(神賀遊具の発見)まだ海外の素敵な玩具たちが輸入されていなかった40年ほど前、私は1人で、リュックを担いでスイス・ドイツに買い物に行った。ドイツ語には自信があった。ミュンヘン・ベルンのおもちゃ屋。上品な色合いの木製玩具が、気に入った。フィンランド製の木肌のままの木製玩具も素晴らしかった。が、どれも個人用家族用の仕様であった。我が家にはよいが、保育所には向いていなかった。日本に戻ってみれば、答えは、すでに木更津社会館保育園にあった。水戸在住の神賀勇次郎氏の作品群。ご本人が4トントラックでご自分の作品を売りに来て下さった。

神賀勇次郎氏の作品は全て桜材であった。桜材は、樫や欅程ではないが、重いので女達に嫌われた。女性職員にとっての、移動の大変さは認めたが、固定中の遊具の安定性が醸し出す安心感を私は、優先させた。しかも子供達の手あかやヨダレや汗で汚れる程に、桜材はその木肌の美しさを増す。プラスチックの硬さ、肌触り、多様な色合いよりも、桜材のそれの方が、私にとっては、生命感・真実感があった。何よりも神賀氏は、集団保育に向いた中型遊具を製作していた。家族向き個人向きでもなく、大集団用でもない中くらいの大きさが、保育所の小さな子供達には合うだろうと私は予想した。

 

 

 

 保育所に入って数年、私は「レゴ」に代わる素敵な組み合わせ玩具を購入し続けていた。フランス製・ドイツ製。「レゴ」に向かって一心不乱に遊ぶ子供達の姿が、私の不満・不全感を引き出すのに時間はかからなかった。私の関心は1人1人の子供達の能力開発よりも、子供集団の活性化に向かっていた。子供達が、一人の人としてその能力を高めることよりも、子供集団の中にいて、お互いに或いは共同してその力を発揮し合うこと。連帯して、対立して、孤立して、グルになって知恵を出し合い、援助しあい、励まし合い、喜び合うこと。仲間の悲しみを共に悲しみ、仲間の成功を本人よりも喜ぶ子供達。その結果として個々人の才能が花開いていく、という道筋を私は想定し始めていた。とても気になっていたモンテッソーリの遊具が、私の視野から外されていった。フレーベルの恩物も敬遠された。マニュアル付きの全ての玩具は我が園から消えていった。乳児室の歯固めなどの個人用玩具は別として、「お友達と一緒に使うと楽しいもの」が残されていった。見た目の美しさよりも、その機能に注目するように子供達は、誘導された。つまり大人が子供達に遊び方を誘導指導することが原則停止された。危険が予測される場合を除いて。

 大人の指導誘導場面は、歌、絵本・紙芝居・童歌・リズム・掃除・食事・終わりの会などあちこちに残されているが、個々の子供の自己判断、子供達集団の自立性の育成は、担任の腕の見せ所となっていった。アメリカ-コンピテンス学派が言い出した、「自己原因性感覚」(倉橋惣三氏が提唱された「活き活きしさ」と同じかと私は思う。)に満ち溢れた子供達がそこに生み出されていった。

 

 

 

 そして20年程前、1999年1月の職員会議。私は、幹部職員への根回しもせずに、それまでの保育を「自己否定」しようと言いだした。園舎もフェンスも玩具も絵本も童歌も掃除もない、「何にもない森に入ろう。」と言った。「トイレだけはある。あとは何もない。里山の森とたんぼ道などがあるだけ。」と言った。私も職員一同も、それまでの20年間の保育の成果に満足していた。親たちの信頼も含めて相当な自信もあった。「だから今こそ自己否定のチャンスだ。」と私は思い出していた。

 

 当時「プレジデント」は月刊誌で「企業30年説」を盛んに流し始めていた。敗戦後、東京大学をはじめとする大学卒業生達が競って就職し、正に退職を迎えんとしていた炭鉱・造船・繊維産業が衰退し始めており退職金も貰えない例が出始めていた。誰もが羨んだ先端産業が30年間の隆盛期を経て没落していく姿。いかなる事業も永続は難しい。もし永続を望むのなら、「時代に合わせた自己革新が必要。」と「企業30年説」は説いていた。

 

 私たちの新企画は始まって20年。30年まであと10年あるけれど、もはや自己満足の停滞は許されない。私は焦りだしていた。が「自己否定」という言葉が職員には衝撃的であった。「やれるもんならやってみなさいよ。」という言葉が、間髪をいれず当時の副園長の口から発せられた。現状への絶対的な自信に裏付けられた反発と驚きの反応であった。中国の文化大革命の「造反有理」や全共闘運動の「自己否定」を連想した者達がいたかもしれない。が、岩波文庫青帯の中に「哲学の暫定的命題」というフォイエルバッハの名著があることを知るものはいなかった。そこには「否定とは規定であり、規定とは限定である。」と書かれていた。自己否定は過去の全面否定ではなかった。私は保育士達にこのような説明をしなかった。「月に1度でよいから森に入って貰いたい。当面、年長クラスだけ。あとのクラスは何も変わらない。」と言って職員会議は終えられた。

 

 

 1999年3月19日、かくして「森の保育」は始められた。

 「森の保育」が自己否定どころか、それまでの保育を更に深め発展させるものであることに私が気付くまで、あと5年程の時間が必要であった。それは、正に「否定は規定であり、規定は限定である」(フォイエルバッハ)事を追体験する過程であった。

 

 

 

 自己否定とは資金的にも精神的にも相当の余裕が必要である。その利害得失を共有する者達全員が自己否定の必要性を認める時は、資金的にも精神的にも、もはや余裕はなくなっているものである。木更津の町の衰退の真っ只中に生きていた者として私は、気付いていた。

 お客様方が、全面的に信頼し応援して下さっている状態で、その満足・幸せ・お客様の信頼を捨てよう、「自己否定をしよう」といわれたらとまどうのが普通。逆に「もはやどうしようもない」となって、「自己否定しよう」といわれて反対する者もいない。

 

 問題は明白だ。「もはやどうしようもない」時には、「もはやどうしようもない」のだ。自己否定も自己変革もできないのだ。遅くとも「まだ何とかなるかも知れない」うちになら手を打てるかも知れない。が「何とかなる」からなんにもしなくてよいのか、「まだ何とかなる」が何か手を打とうと考えるか。この分かれ目はどこにあるのか。

 あなたは、最終責任を誰かに取ってもらえる「管理者」か、最終責任は私が取るしかないと覚悟を決めている「経営者」か。最終責任を負うものは、見えない将来を予測しなければならない。日本の学校は、「ドンピシャリただ1つ」の確固とした過去の事実しか見ない。答えが2つ以上ある未来の問題に挑戦することはしない。まして見えないことを見るレッスンなどしない。

 

 「自己否定」、できる時にはなかなかできない。「自己否定」しなくてもよい余裕があるのだから。せざるを得なくなっている時には、もはやできない。「自己否定」する余裕が既にないのだから。いずれにしても、できない。誰にも結果が見えない「自己否定」は多数決ではできない。少数決もしくは、最高責任者が一人で独自裁決するしかない。いずれにせよそこで必要とされるのは、少しばかりの論理性と過去の体験・記憶のあれこれの凝集沈殿。しかし現状を否定すれば自動的に代案が天から降ってくる、というわけには行かない。今、目の前の完成形を捨てて、代わりに何を始めるか。

 

 3年ほど考え続けて、最後に私は「木更津市郊外にある請西の森で、森の保育園を始めてみよう。」と思った。具体的な実行計画は、ほぼゼロ。「内容は、先生方・子供達と考えながらやろう。森に入ることがよいことなのだ。」と私は腹をくくっていた。そこに、全く予想外のことが起きた。直井洋司氏という「森の天才」が天から降ってきたのだ。この方に会えなかったら、今日の里山保育はなかった。あれから20年程になる。実に実に有難いことだ。

 

 ドイツに"Wald Kindergarten"(森の幼稚園)なるものがあることを知るのは、1999年6月。もちろんその真似をする気は全くなかった。「日本の大学の哲学は、哲学学だ。哲学ではない。」という北大文学部哲学科関係者の自嘲の言葉を私は忘れていなかった。「俺は哲学学はしない。哲学をする。」かくしてドイツや北欧各国とは全く違う生態系を前提に、私は、確信を以て「内在的な自己展開」を目指すことになる。現在も「ドイツ・フィンランド等」をお手本にすることを峻拒する姿勢を変えない。

 

 医学界でも経済界でも、未だに新規企画・新発明の将来性を自己評価する能力を持たない大企業・日本人は多い。結果として新発明を抱える新興企業は、アメリカの企業に認めて貰うことを先行させる。アメリカ人達が「これは素晴らしい。」というと、日本の大企業もその製品の有効性を追認する。森の保育でも同じパターンが繰り返されている。「ドイツで流行っているから素晴らしい。」「フィンランド人が始めたから良いに決まっている。」と人は誇らしげに宣う。そして「本場」ドイツやフィンランドまで出かけてその神髄を学ぼうとする。まるで明治・昭和の初めの日本の優等生たち・大学の先生方と同じ。

 

 「独自性」こそがすべての評価の前提となるヨーロッパの人達にとって、「物まね」をしていることを誇りにする日本人の思考形式は彼等の理解を超えるだろう。「パクリの名人」はどこかの国だけのお家芸なのではない。今でも私たちがはまる罠なのだ。かくして外国人達のご指導を大切にするグループと、日本の独自性を尊重するグループが今、大学でも経済界でも保育界でも併存している。日本人は出来るところから「パクリ」を止めるべし。保育はその段階にあると私は考える。共に世界最先端の保育・独自性を追求していこうではないか。

 

 アメリカ発の絶望のグローバリズム=株主資本主義を乗り越える「公益資本主義」(原丈人著=文春新書)が発案されている。いずれ保育界のゴテゴテ会計基準も原氏によって、その限界が指摘されるであろう。もしかすると、保育マニュアルそのものの(一般の保育士たちがついていけない)「ごてごてしさ」こそが、さっさと清算されるべきかもしれない。

 

2018.1.21 宮﨑栄樹